第13話「『自由』を」
監督自らコンテを切った、キレッキレのアクション。その後のバベルの塔らしき建造物も幻想的な雰囲気で好きだ。このメリハリが素晴らしい。
この話数からバデーニ、オクジー、ノヴァク三者の息詰まるやり取りが続くわけだが、アフレコ現場の緊迫感も尋常ではない。この時のツダケンさん、ちびりそうなくらい怖かった。
第14話「今日のこの空は」
全話数で最も好きな回の一つ。
怒りも悲しみも超越し、穏やかな表情で死を受け入れる二人を「よくぞ生ききった」と称えたくなる。煌めく星々も彼らを祝福しているように見え、切ないのだが何とも感慨深い気持ちにさせられる。牛尾氏の静謐な音楽も素晴らしい。
何度目かの直しで、「夜空に二筋の流れ星。」と書いたら映像に反映されていた。
今回の絵コンテ・演出は8話で例のナイスフォローをして下さった渡邉こと乃さん。打ち上げで対面した際、お礼を述べておいた。
「ちょっとベタかなと思ったんですが、(脚本に)書いてあったんで」とのこと。
確かにいささか情緒的ではある。これ見よがしではなく最後の大きく引いた画でさらりと流れる、あの塩梅は見事だった。今回もありがとうございます。
それから構成的に悩んだのが、そもそも処刑シーンがここでいいのかと。もちろん余韻たっぷりに描かれてはいるが、この後アイキャッチを挟んで何事もなかったかのように次の展開に入っていく。普通なら二人の最期で情感たっぷりにこの話数は締め括るべきだろう。
だが監督は、「こうやって流れるのが逆にいいんですよ」と。
確かにこれまでも、誰かの死で締め括った話数はなかった。常に次の展開を示していた。そうだった、この作品は「繋ぐ」物語なんだ。情感を優先するより、その想いがどう託されていったかの方が重要だ。監督は口数は多くないが、常に大事なことを教えてくれる。
第15話「私の、番なのか?」
ちょうどここで原作五巻分。一巻につき3話。いいペースだ。
原作でもやられたが、このノヴァクには泣かされる。娘の死を聞かされてしばらく無反応なのが非常にリアルである。どうしてこんな描写が出来るのか、つくづく魚豊先生には驚かされるばかりだ。
女性の間で密かに人気だというクラボフスキ。確かにいいキャラである。彼が手紙を発見する際、私はどうしてもバデーニの姿を入れたかった。幻のバデーニが彼の背後で頭を下げるカット。ベタにならないギリギリのラインだったと思う。反映して下さってありがとうございます。
第16話「行動を開始する」
一気に25年飛び、ここから第3章。異端解放戦線なる組織が登場。社会情勢は変化し、内容もより哲学的になってくる。これまでよりもじっくり聞かせないと台詞が流れる恐れがある。そこへ来てシュミットさんが饒舌なものだからさあ困った。ちなみに私はレヴァンドロフスキがお気に入り。重い物をよく運んだ。
この話数の主人公はもちろんシュミット。彼の登場から始めたい。原作ではまずシュミットらしき人物の回想が入る。ネタバレ全開でいくが、これは彼の回想ではない。父親の顔もわざと似せたりしてミスリードを誘っているわけだが論点はそこではなく、回想明けでシュミットの顔(覆面だが)に直結しているところにある。これだとどう見ても彼の過去ということになる。好みとかではなく、文法上そうなのだ。さすがに視聴者に対してフェアではないので、回避したかった。
そこで敢えて「誰の回想か分からなく」した。回想の位置も、やや行って来いのように見えるがアイキャッチ明けに移動。回想明けにはシュミット、フライ、レヴァンドロフスキ三人の歩く足に繋げることで、誰の回想であるかわざと曖昧にしたわけだ。もちろんシュミットの回想だと視聴者が思う分には自由だし、むしろそうミスリードされて欲しい。要はアンフェアではないということ。気持ち良く騙されて欲しいと考えてのことである。
冒頭に大きく「25年後。」とテロップを出し、アイキャッチ後の「25年前。」と対比させて観やすくしたつもりだ。原作では25年前とは明記されていないので、許可を得た上での変更である。「分かりやすい」「理に適っている」といった感想をちらほら目にして安心した。
第17話「この本で大稼ぎできる、かも」
第3章の主要人物の一人、ドゥラカ登場。
彼女もまた少女時代から始まるのだが、移動民族、血塗られた硬貨、父の死など情報が多く難解である。そこであの硬貨の海にダイブするシーンから始めることに。「何だこのキャラ?」というインパクト狙いだ。オープニング明けは過去回想をやりやすいので少女時代はそちらへ移動。
この話数も台詞が多いため、要点を外さないようにしつつ適宜カットした。今後の展開を考えると、そこまで丁寧に拾わなくても大丈夫だろうという判断である。次回への惹きも踏まえ、ドゥラカが窮地に陥るシーンまで進めておきたい。そろそろ終盤が見えてきたため尺配分もシビアになってくる(←これ重要。シリーズ構成経験者なら分かってもらえるかと)。
ドゥラカに(色んな意味で)大きな影響を与える叔父。さすがに名前が欲しいなと。原作では明言されていないが恐らくロマ族。ということはインド語系がルーツ。といった材料から、「ドゥルーヴ(Dhruv)」と名付けた。不動のもの、北極星といった意味合いらしい。ある意味ブレない人物なのでぴったりかなと。
また、ドゥラカの父が亡くなった原因が「狩り」だということだが、音で聞くとちょっと分かりにくい。動物を狩りに行ってどうして血まみれの硬貨を遺して死んだんだ?と混乱する人もいるかも知れない。そこで「略奪」と明言することにした。差別され貧しいため略奪するしか生きていく術がなかった、という背景を感じて頂ければと。
第18話「情報を解放する」
ここまでで原作六巻分。ペース配分に関しては理想的である。
第3章で心掛けたことは、とにかく「分かりやすく」することだったと思う。視聴者を信じていないわけではない。ただ、漫画だと自分のペースで読めて途中で遡ることも出来る。が、映像の台詞は音声であり一方通行だ。一度で分かってもらう必要がある。
この話数は情報の整理が大変だった。ほぼ全編、馬車の中でのドゥラカとシュミットの論争なのである。しかもシュミットさんたら饒舌だし。「私が宗教を嫌うのも論理的でないからではなく、論理的だからだ」なんて最高の台詞なので、こういったものはなるべく活かしたい。
今回の惹きは何と言ってもヨレンタさん再登場である。演じるのは行成とあさん。監督たってのオファーだったらしい。確かに、過酷な25年間を生き抜いた強さや、それでも捨てきれなかった優しさが内包された素晴らしい声だと思う。
原作では彼女がどう生きてきたのか描かれない。だからこそ我々は想像できる。そんな余白の豊かなこの作品が好きだ。
第19話「迷いの中に倫理がある」
ヨレンタが口述筆記をするシーン、オクジーの幻が浮かぶところで毎回泣いてしまう。さらに「やっぱり、文字は奇跡ですね」この時の声音が少女期のヨレンタさんそっくりで、もうホントに声優さんって凄いと思った。
なお、ラストカットでは筆記した紙の束にカメラを寄せ、表紙の文字(『O RUCHU ZIEMI(地球の運動について)』)が映るようにした。オクジーの言葉は、確かに蘇った。
原作ではやさぐれたノヴァクが地動説の話を聞いて活力を取り戻すシーンが先だが、その前にアバンでヨレンタとドゥラカの対面を済ませておいた。ノヴァクのくだりが終わり、アイキャッチ明けにいきなりヨレンタが剣先をドゥラカの喉元に突き付けている方がインパクトがあるかなと。
名言製造機のヨレンタさんだが、とにかく言葉が難解。これを一度で分からせなければならない。普通なら不要な修飾語や重複表現をカットして研ぎ澄ます方向へ行くのだが、逆に言葉を足して理解しやすくする場合もある。一例を挙げよう。
「思考すると常に何らかの権威(ぜんてい)が成り立ち、誰もその枠組みからは出られないのかもしれない」
権威に「前提」というルビが振られていてもうお手上げなので、これは言葉を足すしかない。
→「思考すると常に何らかの前提が成り立ち、それがいつしか権威となる。誰もその枠組みからは~」
前にも述べたが、こんな風に隠し包丁を入れて食べやすくするのも脚色の仕事だ。